2024/06/01 08:37

Khish The Workを主宰する靴職人ケンさんこと菱沼乾さんの工房を訪れるのもこれで三度目。オーダーから17ヶ月の時を経ていよいよ納品の日を迎えた。森人ケンを名乗っていた時期から注目していたが「2024年靴作り世界大会」で見事優勝したこともあって一気に注文が入ったそうだ。これから益々忙しくなるに違いない。我ながら優勝前の良いタイミングで注文したなと思う。
因みに今年の世界大会のお題はフルサドルローファー、ケンさんの作品はダイヤモンド型のつま先や微細なチェーンステッチにリバースのライトアングルステッチで繋いだエプロンなど審査員も思わず見入る仕掛けが満載だった。しかも裏返すとソールのないウェストにライトアングルステッチが再び現れる。靴を何処から眺めても十八番のステッチワークが光る力作になっている。
優勝した靴の製作過程はケンさんのホームページでぜひご覧いただきたいが今回は新たな境地を切り開いた靴職人菱沼乾の技が詰まった完成靴を紹介したい。
※扉写真は工房の看板
(1)談合坂SA

今回も鉄道にするか車にするか迷ったが乾さんから「是非見せたい車がある…」とのこと。ひょっとして甲斐大泉駅にビンテージの四駆で迎えにでも来るのかな…?と想像、ならばと車で八ヶ岳へと向かった。早めに出発して中央自動車道に入ると思ったよりも空いている。時間調整を兼ねて談合坂で休憩することにした。
(2) スタバで休憩

いつものスタバで休憩。今日は夏日とのことで冷たい飲み物をチョイスしたが紙のコップだと今一つ映えない。背後にアメリカ製コンビのドリフターのリュックとバッテンウェアのキャップが写り込んでいる。因みに本日の服装はスウェットにデニムとコンバース…ビスポーク靴の受取とは思えないラフさだ。
(3) 日野春駅

いつも同じルートじゃ飽きるので今回は甲府から下道で八ヶ岳を目指した。途中JR中央本線の日野春駅で駅舎を撮影、改修を重ねているが開業時の面影を残す木造駅舎が良い感じだ。神社仏閣や城など古い建物が好きだが最近は特にレトロな駅舎に目がない。これから向かうケンさんの工房もよく似た雰囲気だ。
(4) 工房到着

甲斐大泉駅で待ち合わせ、いつもの送迎車でケンさんの工房に到着。厳冬期の雪に閉ざされた工房の写真をホームページで拝見したがとても素晴らしかった。新緑の季節を迎えた工房も良いが晩秋から冬、そして春を迎えるまでの期間はブーツやハントシューズなど靴作りに新たなインスピレーションを与えているに違いない。
(5) 完成した靴の箱

完成したシューボックス。手作りにこだわるケンさんらしく勿論ハンドメイドだ。木板を加工して組み上げ上部の蓋をスライドして開けるようになっている。左に写っているのが今回の靴を注文する元ネタになったトリプルステッチのノルベジェーゼ。私が以前運営していたブログで紹介した靴を参考に作ったとか…縁とは異なものだ。
(6) 箱を開ける

いよいよ箱を空けてご対面。急いで開けようとすると木と木の摩擦で引っ掛かってしまう。ケンさん曰く「開けるにはちょっとしたコツが要る」とのこと。焦りは禁物らしくはやる心を抑えてゆっくりと引き出すのが良いようだ。完成した靴を靴箱に並べたらこの靴箱にシューケア用品をしまえるな…などと想像してみた。
(7) 箱の模様

木箱の外側はアンティークな壁紙風の模様が印刷された紙を貼っている。ネットで検索すると「貼箱」と呼ばれ厚紙で作った箱に模様紙を貼り付けたものがあるそうな。ケンさんの靴箱は木製とはいえそれに近い感じだ。白ではなくうっすらと色や模様が入った背景に八ヶ岳の工房から見える鳥や花と植物が図案化されている。
(8) シューバッグ

シューバッグの色を選ぶのもセンスの見せ所。緑がかった模様紙が貼られた木箱に馴染む色合いの布袋にロゴ入りのレザーチップが縫い付けられている。ジョンロブの黄色いシューバッグやクロケットの緑のシューバッグなど靴好きはシューバッグも後生大事に保管するもの、ケンさんもそこをよく心得ている。
(9) 踵の出来栄え

シューバッグから覗く靴の踵。ここを見るだけでこの靴がただものじゃないと分かる。3列のステッチは外側に行くに従って糸は細くピッチも細かくなっている。コバの一番外側、焦げ茶に塗られた部分はウィール(歯車)で波打っているが実はそこにもステッチが入っている。合計4列のステッチを美しく仕上げるのは根気がいるに違いない。
(10) ウエスト部分

ビスポーク靴を注文し始めると最初はアーチ部分がキュッとくびれたベベルドウェストに憧れる。ある程度揃うと今度は写真のようにどっしりとコバの張ったスクエアウェストの外羽根靴が欲しくなる。4列のステッチが階段状に並んだウェスト部分は返りが悪そうに思えるがどっこい、履いた感じでは足に馴染むのも早そうだ。
(11) つま先

つま先部分を拡大してみたところ。今回靴をオーダーするに当たってトリプルステッチを上回る見せ場はないものか?とケンさんに相談したところ「J.M.ウェストンのトリプルソール風にコバを階段状にしてもう一列ステッチを増やしましょうか?」とのアイデアを採用。更なるアップチャージで40万円の大台を超えたが出来上がりは大満足だ。
(12) 出してみる

靴を出してツリーを外して撮影。ワイルドボア(野生の猪)の革を使った如何にもカントリーな靴の完成だ。焦げ茶のコバが輪郭を引き締めているのだろうか、ブランキーニやラッタンジなど一昔前のコバ張りイタリアンノルベよりジェントリーな雰囲気だ。平紐を付けているがこの外観ならばやや太めの丸紐に替えても良さそうだ。
(13) 試着①

早速試着してみたところ。カントリーな外羽根靴らしくドレススタイルならツイードのスーツが、普段履きならワークパンツやデニムが合いそうだ。デニムにスニーカーでの訪問はラフすぎるかと思ったが結果オーライだったようだ。ローファー用に短く仕上げたジーンズとの相性もすこぶる良し。そのままツイードのジャケットを羽織りたくなる。
(14) 試着②

つま先にスプリットのないUチップは初めての注文だったがJ.M.ウェストンのハントダービーをお手本にU字部分が短いフレンチスタイルに変更してよかった。手持ちの靴に新風を吹き込んでくれそうだ。仮縫いを2回行っているので履き心地は文句のつけようもない。素晴らしい靴が納品された瞬間だった。
(15) MTOの出来栄え①

さてここからは目下靴職人菱沼乾が力を入れているMTOの靴を見学させてもらった。お客さんの多くが写真の外羽根Uチップを靴注文されたそうで「外羽根靴」が得意なケンさんの本領が発揮されたようだ。こちらはアッパーを新喜皮革のコードバンに変更、ホーウィンとは違ったマットな仕上がりが良い感じだ。
(16) MTOの出来栄え②

こちらはオールデン風に言えばプレーントウブルッチャー、しかも外羽根部分の縁はチャーチのシャノン同様手縫い仕上げだ。アッパーはオールデンと同じホーウィンのシェルコードバン。バーガンディの色目がそそる。一見何気ない靴ながら足に合って好みのデザインを好みの素材で仕上げた手縫い靴を履く…贅沢でお洒落だと思う。
(17) MTOの出来栄え③

こちらは自分が今回注文したワイルドボアの色違い。控えめなデザインにはダークな猪革が合うようだ。トリッカーズのバートンを思わせる外鳩目が4つ並ぶ外羽根と控えめなブラインドブローグの組み合わせは有りそうで中々ないデザイン。既成靴では手に入らないデザインをMTOとして展開する…既成靴も熟知したケンさんらしい。
(18) MTOの出来栄え④

こちらはカーフのプレーントウ。デザイン元はジョンロブロンドンで最もクラシックかつ洗練されたスタイルの一つとされているHiloだ。ジョンロブではチェスナッツアンティークのサンプルをウェブサイトで紹介しているがダークな色も良い。エレガントな外羽根靴をMTOサンプルに用意したのもケンさんのセンスに違いない。
(19) MTOの出来栄え⑤

いつの時代も定番として存在し続ける内羽根のフルブローグ。親穴が大き目なパーフォレーションはチャーチスを思わせる。力強い印象のストロングブローグと繊細なコバが絶妙のコントラストを醸し出している。黒のアッパーだと控えめな印象だがアッパーをチェスナットブラウンに替えるだけで「おおっ!いい靴だな…」と印象ががらりと変わるではないか…。
(20) サンプル靴

こちらがMTOのサンプル。オーソドックスなものからカントリーまで揃えている。(15)でも書いたがお客さんのうち6割近くが上段一番左の外羽根Uチップを注文するそうだ。革もワイルドボアやワイルドベアなど既成靴にはない革を注文する人が結構いるらしい。人とはちょっと違う靴を履きたい人にMTOはグッとくるのだろう。
(21) ドレス靴のサンプル

こちらは黒革のドレスシューズサンプル。どんなに時代が変わっても上質な黒の革紐靴は1足持っておきたいもの。フォーマルなら右のプレーントウ、ビジネスなら左のパンチドキャップトウ、チョークストライプのパワースーツには中央のダイヤモンドキャップトウ…お客が欲しいと思う靴をサンプルで揃えるのも誂え靴屋の大事な仕事だ。
(22) 小海線で来るなら

次に来る時こそ小海線に乗って最寄り駅の甲斐大泉駅まで来よう…そう思って待合室に入り時刻表を記録がてら写真撮影。上り下りともに列車の来ない時間帯が7時、9時、11時、19時と結構ある。鉄道を乗り継いで工房を訪問するなら先に小海線に乗る列車の時刻を決めてから菱沼さんにアポイントを取った方が良さそうだ。
(23) 見せたい車の正体

最後に(1)の「見せたい車がある」の種明かしを…写真はケンさんの愛車「バーキン」だ。元祖はロータス7だが引き継いだケーターハムが存在するにもかかわらず南アフリカのバーキンが独自に製造販売を始め法廷闘争に発展。結局バーキン側がセブンの名を外して「バーキン」とすることで軟着陸したそうな。しかしその出来栄えは高評価のようだ。
(23) 富士山とケンさん

ウィンドウもなく幌もない車はゴーグルを付けて晴れた日にしか乗れない。それでも靴作りのインスピレーションを得るほど車好きなケンさんには欠かせないひと時…写真の笑顔がそれを物語っている。「昔は靴も趣味の一つだったが生業となった今は愛車バーキンを走らせる瞬間が唯一の趣味でしょうかね」…と語っていた。
職人は技術に加えてセンスが必要といわれる。例えば菓子職人なら美味しいだけでなく見た目も綺麗な菓子を作る美的センスということになる。ではどのようにしてセンスを磨けばよいのだろうか。その方法として①既存の菓子の味やデザインをリサーチする②特に人気の味やデザインを比べる③売れている理由を探る④コンテストで受賞した菓子を分析する⑤最新のトレンドも意識する…の5つが挙げられていた。
これを靴職人に置き換えると履き心地と優れた外観を両立させる美的センスになろうか。ケンさんは世界大会で優勝するまでに❶300足以上の靴を試し❷人気ブランドの靴を実際に履き比べ❸売れ筋の靴は手元に残して参考にしたそうだ。❹靴職人として独立後は過去の「靴作り世界大会」で優勝した靴を分析し❺審査員の動向やトレンドを意識しつつやり過ぎない作風を心掛けて出品、見事優勝を勝ち取っている。
菓子職人の①~⑤と靴職人菱沼乾の❶~❺はぴったり重なる。実は世界大会に出品する前の昨年12月、仮縫いでアトリエを訪問した時既にケンさんは世界大会に出品する靴の詳細を語り、優勝への意気込みを語っていた。有言実行、狙って獲れるものではない世界一を引き寄せるところに靴職人としての類稀なセンスを感じる。後編ではそんなケンさんの力作、最新のノルベ靴をもう少し深く掘り下げてみたい。
By Jun@Room Style Store