トナカイ革よもやま話 | Room Style Store

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2022/04/02 22:18


1989年11月1日号の雑誌ブルータスを覚えているだろうか?「靴だけは外国製に限る、という人が多い。それも英国製…」と刺激的なキャプションが並ぶ表紙だ。もし今もお持ちなら相当な靴好きのはず。特に強烈なのが「沈没船から引き揚げた200年前のトナカイ(の革)で作った靴…記念すべき1足目はチャールズ皇太子に献上された…」の部分。雲上界の話だが今も鮮明に覚えている。

後で調べるとその革は1786年12月、荒天のため英国西端コーンウォール州のプリマス湾に沈んだデンマークのメッタ・カタリーナ号(Metta Cathalina)から1973年に引き揚げられたものだと分かった。ロシアで鞣されたトナカイの革:ロシアンレインディアと呼ばれたその革をレストアして靴に仕立てるというスケールの大きな話は英国靴への興味を一層搔き立てた。

そこで今回は自分の英国靴好きを決定的にした236年前(2022年現在)のトナカイ革で作られた靴と、それを現代の技術で再現したリプロレザーの印象、ロシアンカーフという呼び名が与える誤解について書き記そうと思う。

【参考文献】
ブルータス1989年11月1日号の表紙。昔お世話になった古書店Tweed Booksさんから写真を拝借しているが、ここではトナカイ革の靴を作った工房ポールセン・スコーンとその職人ジョンカネーラが紹介されている…。
元クレバリーで現在ジョンロブに籍を置くティームによると(当時ポールセン・スコーンにいた)ジョージクレバリーはレストアされたトナカイ革を抱える革職人との間で優先購入できる約束(Gentlemen's agreement)を結んだそうだ。クレバリーの死後、師匠の名を冠したジョージクレバリーをカネーラとグラスゴーが再興するとトナカイ革の優先購入権もクレバリーに移ったとのこと。

雑誌でカネーラは革のストックはあるが「トナカイ革で再び靴を作ることはたとえだれに頼まれても今は考えていない」と応えていた。だがジョージクレバリーに移って気が変わったのか再びトナカイ革の靴を作り始めた。一方ストックされたトナカイ革の処理に困ったポールセン・スコーンはクロケット&ジョーンズに既成靴を作らせ一時ニュー&リングウッドで販売したのを見かけた。


【1786ロシアンハイド】
優先的購入権を得たクレバリーにトナカイ革の靴をオーダーしたのは2003年。ブルータスの記事から14年後のことだった。当時グラスゴーは「ロシアンレインディア」と呼んでいたが、途中「ロシアンカーフ」と言っていた時期もある。現在クレバリーの公式HPでは1786ロシアンハイド(Russian Hide)と表記している。hide(獣革)にしたのはトナカイ(reindeer)革と同定されつつも推論の域に対する配慮かもしれない。
(1) ジョージクレバリーで誂える
クレバリーで1786ロシアンハイド(以下トナカイ革を現在のクレバリーの呼び方で統一)をオーダーした当時は特に話題に上ることもなくトランクショウで他の顧客の仮縫い靴を見かけるのも稀だった。ひととおり誂えるとロシアンレインディアはオーダーしたか?…じゃあという感じだったと思う。既に£150のアップチャージが付いていたが十分許容範囲、だが完成品は古色蒼然たる趣が感じられた。


(2) 独特のハッチグレイン
ところが遠目とは裏腹に近くで見ると一気に存在感が増してくる。独特の菱形模様は唯一無二、黒い染みや型押しの乱れも236年前の革なればこそ、チャームポイントとさえ思える。もはやアンティーク家具のようなものだ。だが1973年の発見時点で187年も海底に沈んでいた革で仕立てた靴は横一文字に靴が裂け、サイドが割れた顧客もいた。

(3) ライニング
踵の裂けを防ぐため土踏まず側にシーム(縫い目)をずらしたので一見シームレスのようだ。贅沢に内張りもトナカイ革だが履き口の内外に小さなクラックが出てる。このデリケートさを嫌って避ける顧客や手放す顧客もいた。だが236年前の革に今と同じ質を求めるのは無理があろう。アンティーク品だと思えば気持ちも随分変わってくるものだ。


(4) 革の質感
海水による浸透圧で成分の抜けた1786ロシアンハイドは修復したとはいえ定期的な保湿補油がポイント。手入れを怠らなければ快適なフィッティングは持続する。ダイヤモンド状の模様は金属網を使ったのかと思いきや溝のあるローラーで平行線を付け、更に革を回転させて同じ作業を繰り返してダイヤ柄を作り出したらしい。BBQの焼き目と似たようなものか。

(5) 革の供給
20年近く履いた1786ロシアンハイドのセミブローグ。細かなクラックはあるが今も現役だ。NYタイムスによると1786ロシアンハイドを引き揚げた潜水夫のイアンスケルトンは「66歳になった。30年間も続けているが何度か死にかけた…もう引退したい。」と述べ、数年後に調査は終了。新たな革の供給は閉ざされたままだ。


【ホーウィンの試み】
(6) ハッチグレインの登場
オリジナルの1786ロシアンハイドが残り少なくなると独特のダイヤモンドクロスを再現したリプロレザーが出回り始めた。中でもコードバンで有名なホーウィン社による「ハッチグレイン」は比較的早い段階で靴素材として用いられたと思う。写真はそのハッチグレイン(左)と元祖1786ロシアンハイド(右)の比較。革質は異なるが雰囲気は近い。


(7) 表面の模様
一番の違いは模様が平行線によるダイヤモンド柄ではないこと。横方向と縦方向に不均一に付けられた型押しのシボが所々でひし形の模様を形作っているが連続性はない。植物鞣しの1786ロシアンハイドを意識したのかホーウィン社ではクロム鞣しにタンニン鞣しを加えて弾力性のある革に仕上げたようだ。


(8) ハッチグレインローファー
ハッチグレインは1786ロシアンハイドと違って丈夫で肉厚もあり耐久性も高い。カントリーシューズに相応しいがそれをローファーにすべくライニングなしをリクエスト。担当したペルティコーネの吉本さんは先芯や月型芯(踵)をどうするか試行錯誤しつつ満足のいく1足に仕上げた。ローファー作りの腕前を一段と上げたようだ。

(9) ラギットな革質
ハッチグレインのタフさが分かる靴の側面。アンラインドなのに皺ひとつ出ない。ルーマニアのサンクリスピンも同じ革でタッセルローファーをラインナップしているが、その革を「ロシアンカーフ」と謳うのはいただけない。沈没船から引き揚げた1786ロシアンハイドでは…と混乱を招くからだ。正しくはハッチグレインタッセルローファーになる。


【ベーカー社の試み】
(10) 共同開発
エルメスの依頼を受けて英国のタンナーJ&FJベーカー社が1786ロシアンハイドを参考に完成させたロシアングレイン。エルメスではヴォリンカという名で採用しているようだ。2017年クロケット&ジョーンズでも同じ革で短靴Peebles(写真)と長靴Radnorをリリース、本国経由で手に入れたのが写真の靴だ。

(11) 植物鞣しの匂い
今ではすっかり抜けたが最初はバーチオイル(白樺オイル)の匂いが強烈だった。コピー元の元祖1786ロシアンハイドの草いきれのような匂いとはまた別だが、ベーカー社では文献等を参考に同じ鞣し手法に拘ったようだ。靴素材としては吊り込み過程でトゥキャップが割れたりメダリオンが裂けたりするそうだがこの靴にはそうした兆候は見られない。


(12) クロケットの腕前
真鍮の鳩目が目を引く以外は至ってシンプルなデザインのPeebles。クロケットが飾りステッチだけのつま先や単純なV字の切り返しで仕上げたのもひょっとして裂けやすい革の特性に気付いたのかもしれない。ベーカー社のロシアングレインはエルメスが鞄に用いたように平面の多い革製品むきだとする説も合点がいく。


(13) 幻の革となるか…
ロシアングレインの靴を履いた図。アッパーの深い皺も1786ロシアンハイドのように裂ける心配がないので専らアウトドアで愛用している。気になるのは靴の素材に向いていないということ。沈没船から引き揚げた革のようにレッドリスト入りする恐れもあろう。そう考えたら写真のように酷使していいものか心配になってきた。

【ウェストン社のロシアンカーフ】
(14) ロシアンカーフ?
実はフランスのJ.M.ウェストンも自社採用の革に「ロシアンカーフ」の名称を付けている。日本のウェブサイトでは写真の677ハントダービーがタンブラウンロシアンカーフ、180ローファーはタンブラウンボックスカーフと同じタンブラウンでも2種類の革があるらしい。ロシアンカーフと言うとウェストンを思い浮かべる人もいるので更に話がややこしくなる。


(15) スムースレザー
さてウェストンのロシアンカーフはといえば革の表面はきめ細かくて上質。ワックスと水滴で鏡面磨きを試みても中々光らない。最初のうちはあまり光らない革のようだ。何年も履き込んだ靴好きのハントが飴色に変わっているのを見て「そういえば1988年に初めて買ったローファーも光るまで時間がかかったなぁ…」と昔を思い出した。


(16) ロシアンカーフの名の由来
昔のウェストン青山吉賀店長に倣って穴開き(修理済)ジーンズにハントダービーを合わせてみた。結構絵になる組み合わせだ。当時の資料からプリマス湾で沈んだメッタカタリーナ号はジェノヴァにトナカイの革(1786ロシアンハイド)を届ける予定だったらしい。昔のロシア革は最高品質、「ロシアンカーフ」という名も高級革の代名詞だったのかもしれない。

(17) 高価なハントダービー
ハント(ダービー)も踵の縫い目が土踏まず側に来ている。イタリアの誂え靴屋は「古くなると一気に裂けることがあるから踵に縫い目は入れない…。」と聞いたがそれと同じ理由だろう。手縫いのノルベステッチが目を引くハントも今や40万円近い。それでも定番品でこれだけ凝った靴を作り続けるJ.M.ウェストンには頭が下がる。


【ハッチグレイン再び】
(18) サンクリスピン
ペルティコーネのローファーで味を占めたので再度ハッチグレインの靴を今度はサンクリスピンに注文。コロナ過での注文ゆえ詳細は以前のブログで詳しく紹介している。サンクリスピンのウェブ上では「手染めのバーガンディクラストカーフ(CRS)とライトコニャックロシアンカーフ(RUS)」という定番コンビ。おっといけないロシアンカーフ(RUS)とはハッチグレインのことだ。


(19) ポリッシュの違い
上がサンクリスピン、下がペルティコーネ。どちらも同じホーウィンのハッチグレインだがサンクリスピンはコニャック色に手染め済。吉本さんのペルティコーネはナチュラルのままの納品になる。因みにサンクリスピンではハッチグレインをベージュ、コニャックからミッドかダークブラウン、ブラックまで5色展開している。


(20) シャフトを見せる
サンクリスピンではハッチグレインの人気が高いようで既成靴でもビスポークでもプッシュしている。このブーツも全てハッチグレインにして色の濃淡でコンビにしても良かったかもしれない。写真はシャフト部分が見えるようデニムをロールアップしての撮影。背景は枯れ葉色の風景だが春は近い。

(21) フルビスポークとの違い
シャフト部分、特にハッチグレイン部分は自分の足よりも大きめのせいか革が余り気味だ。もともと短靴のラストで作っているだけに、足首や腓腹部(ふくらはぎ)までの高さや周りの長さなどデータを伝えても限界がある。やはり職人が直接採寸しないとフィットしたブーツを手に入れるのは難しいということか…。


【参考資料】
ハッチパターンの比較
今回紹介した革を順に並べてみた。紐の太さからほぼ同じ倍率だと思うがハッチグレインもロシアングレインも菱形が小さい。その上で1786ロシアンハイドに一歩近いのはロシアングレイン、ハッチグレインはロシアングレインより身近な存在だ。しかもホーウィンはハッチグレインの上を行くハッチコードバンまで用意するなど攻めの印象が強い。後はエドワードグリーンが使うユタカーフを一度試してみたい…。

(23) 時を重ねる
ホーウィン社のハッチグレインもべーカー社のロシアングレインも完璧ではないが1786ロシアンハイドの雰囲気をかなり再現している。もし236年前に鞣された当時のトナカイ革と比べたら現代の革の方が品質では勝るに違いない。だが過ぎ去った年月が再現し難い力となって1786ロシアンハイドを唯一無二のものにしている。

先述したジョンロブのティームによれば「潜水夫のイアンは既に引退、海底に残る革は危険な場所にあるのと沈んだ場所から引き揚げるにはチャールズ皇太子の許可が必要なのでだれも手を付けてない。」そうだ。ロンドンの靴屋がどれだけストックを抱えているか分からないが1786ロシアンハイドの在庫はかなり少ないと思う。

クロコダイルのようなエキゾチックレザーと同じ価格と言われるがジョンロブならば£18,120(≒2,990,000円)という価格になる。昔を知るだけに今さらその値段でオーダーしようとは思わないが、ふと「12億円で落札された油滴天目を法外と思うのはそれに見合う文化的な価値を共有していない」という話を思い出した。

いくら高くてもその靴を手に入れたいと思う顧客はいるだろう。今の自分には1786ロシアンハイドに対する価値は共有できないだろうがその価値に共感することはできる。沈没船から革を発掘し蘇らせ靴に仕上げた経緯や236年の歴史が宿った靴は他とは違う「ロマンを履いている」と思えるものなのだ。

By Jun@Room Style Store